日比谷カレッジ「境界 戦争体験者の証言」講師プロフィール

7月28日(金)に千代田区立日比谷図書文化館で催される日比谷カレッジ「境界 戦争体験者の証言」で講師を務める大島満吉氏、吉田由美子氏のプロフィールと、『境界 BORDER』シリーズで著した手記の一部を紹介します。

大島満吉
おおしま・まんきち● 1935(昭和10)年12 月2 日、群馬県利根郡新治村(現・みなかみ町)生まれ。3歳の頃、母、兄と共に父の暮らす満州へ渡る。1945(昭和20)年8月14日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍の民間日本人大虐殺事件「葛根廟事件」に遭遇。襲撃を受けた約1,200人のうち生き残ったのは百数十人といわれる。奇跡的に一家5 人が逃げ延び、1946(昭和21)年10月、新京(現・長春市)から博多港へ帰国。犠牲者の慰霊と事件を語り継ぐ活動を続ける。

「遥かなる平原からの叫び」(『境界 BORDE Rvol.1』掲載)抜粋
私は、はっと気づきました。それは戦車から降りたソ連兵たちだったのです。彼らの軍靴が壕の地面の砂利を鳴らしながら、ゆっくりと近づいて来ます。彼らは私たちの真後ろで立ち止まりました。銃床で殴りつけられてもおかしくないほどの至近距離でした。恐怖に震えながら「ああ、もう駄目だ」と思った瞬間、兵隊たちは、私たちの頭越しに三十メートル先に集まっていた大勢の人たちめがけて一斉に機関銃を発射しました。「お願い! 私を先に撃って!」という女の人の絶叫も聞こえてきました。集団の中に銃を持った男の人がいたので、その人に撃ち殺してくれと頼んだのです。ソ連兵は銃を持つ男たちの反撃を警戒したのかもしれません。無抵抗だった、その集団を猛烈に撃ちまくりました。マンドリンと呼ばれた機関銃をダダダダダと連射する音、弾丸がブスっと人の体に食い込む音、撃たれた人のギャーという悲鳴……まさに阿鼻叫喚の修羅場でした。
その集団から離れた場所でただ震えていた私たち家族は無視されたのかもしれません。銃から流れ出る硝煙んと薬莢の匂いが私たち親子の周囲にたちこめ、さらなる恐怖が私たちを覆い尽くしました。
やがて撃ち殺した集団の横を通って、ソ連兵は先へ向かっていきました。悲鳴は沈黙へ。全員死んでしまったことは明らかでした。


吉田由美子
よしだ・ゆみこ●1941(昭和16)年6月29日、東京都本所区業平橋(現・墨田区業平)生まれ。3歳のとき、東京大空襲で両親と生後3カ月の妹を失う。戦災孤児となり、新潟の親戚宅に引き取られる。高校卒業後、就職を機に神奈川県平塚市へ転居。数枚の写真を手がかりに出自を辿り始める。2007(平成19)年、東京大空襲訴訟の原告団に戦災孤児として参加。現在は、自らの過酷な子ども時代の経験をもとに子どもたちに東京大空襲について語る活動を行っている。

「空襲が奪った家族の時間を求めて」(『境界 BORDE Rvol.2』掲載)抜粋
中学校時代も家の仕事ばかりさせられて勉強する時間があまりなかったのに、高校に進学したら勉強についていけないのではないだろうか、学費は本当に払ってもらえるだろうかと不安はつのるばかりです。他人に迷惑をかけたくない、死ねば親に会える……そんな考えがよぎりました。やがて絶望した私は死に憑りつかれたのでした。
夜中の零時ちょうどに三十両編成ほどの長い貨物列車が、家の近くにあった北陸線の線路を通過することを私は知っていました。貨物列車に飛び込んだら自分は一瞬にして両親のもとへ行けるはず……。
その晩、夜中の零時ちょっと前に、家の裏木戸をそっと開けて、細い路地を歩いて北陸線の線路際へ行きました。やがて、しんとした闇夜を列車が近づいてくる音が震わせます。私は足を一歩前に踏み出しました。するとそのときです。突然、女の人の声で「死んじゃだめ! 死んじゃだめだよ! 生きるんだ!」という叫び声が耳に飛び込んできたのです。
その声は全身に轟き、その衝撃で私の体は固まってしまったのです。はっと我に返ると、私は線路脇の土手の下に落ちていました。なにが起きたのか、まったくわかりませんでした。列車の風圧で飛ばされたのでしょうか。声の主は誰だったのか……もしかするとお母さんだったかもしれませんが、私は母親の声を覚えていません。よく見ると線路の向こう側にはお寺があって闇の中に墓地が薄っすらと見えました。あの声は墓地に埋葬されている方の魂の声だったのでしょうか……。


日比谷カレッジ「境界 戦争体験者の証言」
日時:7月28日(金)14:00~15:30(13:30分開場)
場所:日比谷図書文化館4F スタジオプラス(小ホール)
定員:60名(事前申込制、定員に達し次第締切り
参加費:1,000円 ※学生料金500円
申込:日比谷図書文化館

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