暮らしの中の哲学エッセンス №20

安木由美子著『閑事 草径庵の日々』刊行(11月24日)記念に安木さんがかつて千葉県の新聞販売会社が発行していた文学通信紙『総国(ふさのくに)逍遥』(2010年7月~2013年2月)で連載していたミニコラム「暮らしの中の哲学エッセンス」をリバイバル公開。『閑事 草径庵』以前の安木さんの人生哲学の一端に触れられる特別連載です。(毎日更新中!)

『閑事 草径庵の日々』

風の伝言

ひんやりとした風吹く駅の改札で友人と待ち合わせた日、携帯電話を鞄に探りながらふと思い出した。かつて、どこの駅でも改札付近の薄汚れた壁に伝言板があったことを。要件だけの一文や定期券の落し物のお知らせなんかが書かれていたあの黒板。私は見知らぬ人の残した短い伝言に、先に出発していく人の、メッセージを読んで改札へ急ぐ人の姿をぼんやり想像するのが好きだった。
生前無神論者と見なされていたスピノザは、主著『エチカ』が何の先入観もなしに多くの人に読まれるよう匿名での出版を遺言した。定理、証明、系という構成で綴られる真理は簡潔な伝言のよう。「賢者は決して存在することをやめず、常に心の真の満足に達している」と言い、しばしば風になぞらえて語られてきたその哲学者が、44年の短い生涯を穏やかに閉じたのは、335年前の2月21日。家事の合間、その風のような伝言を読みながら、私は今日も暮らしている。
(『総国逍遥』2012年3月号)

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