暮らしの中の哲学エッセンス №10

安木由美子著『閑事 草径庵の日々』刊行(11月24日)記念に安木さんがかつて千葉県の新聞販売会社が発行していた文学通信紙『総国(ふさのくに)逍遥』(2010年7月~2013年2月)で連載していたミニコラム「暮らしの中の哲学エッセンス」をリバイバル公開。『閑事 草径庵』以前の安木さんの人生哲学の一端に触れられる特別連載です。(毎日更新中!)

今回は2011年3月11日に起こった東日本大震災を悼み、「安寧への祈り」をテーマにした『総国逍遥』特別編集版。「暮らしの中の哲学エッセンス」もロングバージョンで書き上げてもらいました。

『閑事 草径庵の日々』

タイムカプセルと可能性のカケラ

1月中旬から準備を進めていた3月の予定があった。それは息子の幼稚園卒園のときに埋めたタイムカプセルを、6年後の小学校の卒業式後に集まって開けようというもの。先生方と相談して決めた日程は3月27日。再会に向け楽しいやりとりをしていた頃、東北関東大震災が発生した。その後の津波や余震、原発事故による甚大な被害が続く中、春の日が目の前を過ぎていった。
地震のあと、のどかな春はまるで違う日常の側面を見せ始めた。一変したような町や人々の様子に、夕方には閑散として暗くなるのが当たり前だった幼い頃を思い出したと友達は言い、1964年の粟島沖震源の新潟地震を経験した私の母は、余震の続く中、七輪や井戸水を使っての食事の話をした。そして私は子供の頃、母のその話を聞かされながら、枕元に妹とひとつずつ用意されたバスケットに翌日の着替えを入れて眠りについた幼い頃を思い出していた。
新聞には阪神大震災や太平洋戦争、原爆を引き合いに「それでも立ち上がってきた日本」について書かれた記事が並んだ。そして、目がくらむほど白々と明るく賑やかな夜も、際限なく巨大化し続ける便利な都市も、実はこれほどにももろく、そして多くの犠牲の上にあったということを、私たちはずっしりと思い知らされもした。
どうやら人々の暮らしをも飲み込んだ大きな揺れは、私たちが忘れていた、見ないように考えないようにしてきた胸のうちのある種のカプセルをぐらりと揺らし、ゆるんだ蓋からとぽとぽ中身をこぼれさせたようだ。
日々暮らして行くということは、自然の力の前に人間の情けないほどの小ささをさらすことであり、その時々、起きたことを受け入れていくしかないということでもある。突然の巨大地震による悲痛な現実を前に、人はそれぞれの仕方で本当に「考えた」のではないか。自然とは、人間とは、生きるとは、そして本当に大切なこととは…と。
バートランド・ラッセルは《ある問いに対して正解は出せなくても、多くの可能性を考えることができ、そして自分の欲望に固執することなく心を自由にできるものとしての哲学の価値》を説いた。考える意志を持つことは生きることであり、それこそが喜びに満ちた日々をもたらすのだという。
当たり前に思っていたことを改めて考えてみる。そうしたところで明確な答えは出せないし、世の中が変わるわけでもない。ひとりの主婦である私にとって暮らしの中で哲学するということは、家族のご飯を支度し、まぶしい陽射しに目を細めて洗濯物を干し、通りでご近所さんと言葉を交わす…そんなたわいない毎日の中で「考える」可能性のカケラに気付いて暮らすことなのかもしれない。
悲しみや苦しみは理屈で乗り越えることはできない。それでも絶望せずに生きていくために、人には笑顔があり、ささやかな触れ合いに心温まり、優しさに涙するのだと思う。
子供たちのタイムカプセルを開ける日は延期となった。代わりに私たちは多くのカプセルを胸の内で明けた。仲間とは「いつでもいいよ、開けられる日まで元気でいよう」そう言い合った。
被災者のひとつ宮城県南三陸町の志津川中学校では、例年より少し遅れて卒業生がタイムカプセルを埋めるという。そこに込められた今の思い。5年後、20歳になったときに彼らが笑顔に支えられてそれを開けることができますように…。
祈るような思いと共に、人の心の大らかな強さを信じたい、そう思う。
(『総国逍遥』2011年祈号)

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